”正しい”より”楽しい”
「とにかくやってみよう!」の精神で行動することが世界を面白いものに変える第一歩になる、と言うお話
皆さんが普段仕事をしている部署、チーム、学校だとクラスなど、何か新しいことを始めようとするときに障害となるのは”意見の相違”ではないでしょうか?
そしてその意見の相違を埋める手立ては多数決ですか?リーダーの独断ですか?
先日ある勉強会の映像を視聴していました
その中で、ある困難な問題に対するアプローチとして
いっぱい考えてやってきた
次の一手はどうしよう
正解なんだかよくわかんないけど、覚悟決めてこの案で「とにかくやってみよう!」
と取り組みを開始したところ、今はそこそこうまく行っているらしい(ある問題と抽象的にしているので、この問題については読者が各々思い浮かぶ自分にとっての問題に置き換えてもらったら良いように思います)
問題が起きると「こうじゃないだろうか」「こうは考えられないか」と様々な人が様々な知恵や経験を絞り出し、最適解らしきものを提示して、結局は多数決や声が大きい人の鶴の一声で決まってしまう
このやり方を批判しているわけではないですが、何かしらその選択をするにあたっての”妥当性”みたいなものを要求されるわけです
この勉強会で話した人たちも、もちろんそんな会話があったんだろうが、最後の決め手は「とにかくやってみよう!」だったと話す
この姿勢には背筋を正される思いだった
もちろん自覚していないだけで僕も普段から「まぁやってみましょう」的なことを言っているんでしょうが、いかんせん複数人でチームを組んで仕事をしていると、様々な意見の食い違いや立場の違い、価値観の違いから事が思うように運ばないことがままあるし、結局安全策を取る毎日
でも「とにかくやってみよう!」。これが言えるチームって能力がどうこうじゃなく、ワクワクするな、と勉強会の話を聞いて思っていました
もちろん最低限の安全策は取るので無配慮、と言うわけではないですし、きっとそう言うチームは一歩引いた視点で見ることができる、良い意味でのストッパーがいるのかもしれませんね
こういう仲間、チームを探してそこに入る。つまり環境を変えればいいと安易に考えるのではなく、自ら作り出していけるといいな、なんてことも思いました
アドラー心理学で言うところの
何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか
という思考に似てますかね
この考え方、結構好きなんです
余談で、僕が言わずもがな、なのですが日本のパンクバンドに”WANIMA”と言うバンドがいます。
その曲の中にKD○IのCM曲として使われた”やってみよう”と言う童謡をオマージュした曲があります。
聴き馴染みのある童謡のメロディを一部使用しているので一見すると”子供っぽい”印象を受ける人もいる気がするのですが、歌詞がシンプルながら核心をついていて、いつも励まされます。その冒頭が
”正しいより 楽しい
正しいより 面白い
やりたかったことやってみよう
失敗も思い出”
WANIMA やってみよう
言葉は平易ですが、なかなか普段できてないなと感じるところです
大人になればなるほど”正しさ”が求められ、”楽しい”よりも”安全であること”が大前提となる
何かを選択する時は、往々にしてこう言った危険から遠ざかるための選択肢を選ぶことが多いように思います
人間の子孫繁栄、種としての生き残りのためには危険を察知できる、回避できる能力は必須であり、誇れることなのですが…
危険なことをどんどんしよう、と推奨しているわけではなく、
理性、知性がある人間にとってはやっぱり反射的に安全を取るんじゃなくて、どちらを選ぶか迷ったときは”楽しい”とか、”面白い”を選択の基準にしたいと感じた、ということです
安全な道を選んで生きてきた自分への戒めも込めた今日の記事、皆さんは明日から何を基準に選択をしますか?
ではまた!
らこ太